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2011年8月

3.東日本大震災における婦人防火クラブの支援活動について

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 平成23年6月30日、市町村婦人防火クラブ幹部研修会において、東日本大震災における被災地の支援にあたった婦人防火クラブ員の活動内容を、茨城県婦人防火クラブ連絡協議会 橋本弘子副会長、岩手県婦人消防連絡協議会 千葉とき子会長から基調報告がありました。
 研修会で基調報告された活動内容を、口述記録として、紹介します。

「3・11 その時私達クラブ員は」

茨城県婦人防火クラブ連絡協議会  副会長 橋本 弘子

基調報告をする橋本副会長
基調報告をする橋本副会長
 3月11日午後2時46分、今までに体験した事のない大きな地震が発生しました。日立市は震度6強という大変強い揺れで、その後最初の地震よりも大きな揺れの余震がやって来ました。そして、日立港には4メートルの津波が押し寄せました。
 その時私は日立市内におり、直ちに近くの日立市消防本部に向かいました。当然電気・電話・携帯も切れ、何も繋がらない。信号機も機能しておりません。車で消防本部に向かう途中、皆さん譲り合って、事故も無く無事に消防本部にたどり着く事ができました。
 消防本部に行ってみますと、中が真っ暗でした。予防課の殆どの方が近くの工場が危険な状態ということで、出動されていました。被災の状況が次々と消防に入って来ました。余震に備え、日立市役所の建物が古いということで、消防本部の3階が災害対策本部になり、日立市長さんをはじめ、防災関係機関の方々が消防本部に集まって来ました。
海岸近くの住宅に押し寄せる津波
海岸近くの住宅に押し寄せる津波
 その後自宅に戻るのですが、家に着くまでの時間が長かったこと。1メートル走るのに10分以上はかかったでしょうか。やっとの思いで家へたどり着きましたが、自宅の屋根の瓦が落ちていて近所の方が脇に片付けておいてくださいました。いつも鍵を二カ所かけて外出するのですが、揺れの凄さでカギが二カ所とも空いてしまっていました。部屋の中では畳1畳分の壁が床に落ちて、私の家は半壊です。
 
 辺りが薄暗くなりはじめた頃、近所の大みか小学校の避難所に向かいました。避難所は中も外も入りきれない人が溢れていました。運動場には誰が並べたのか、きれいに車が駐車されており、その中には避難者がいました。交流センターはもちろん真っ暗で、畳の部屋には寒さをしのぐため、壁に寄り掛かっている人が多くいました。その壁の上には額に入った表彰状が沢山壁に並べられていたので、危ないので下ろしてもらったり、あまり交流センターを使用した事のない若い方達は押入れの中にある座布団の存在を知らないようで、使用してもらうよう促しました。
 運送業をしています息子から従業員やトラックも皆無事だったことを聞いて私はホットして胸をなでおろしました。家の中は真っ暗でしたが、昨年、千葉県婦人防火クラブ連絡協議会の竹内会長がとても軽量で明るくて便利なラジオ付き懐中電灯を送ってくださり、この時とても重宝しました。玄関先にも大きな懐中電灯を置いていましたが、地震で落ちて割れてしまい、これからは置き方も考えなければならないなと、軽量なものを一つ用意しておくとよいと思います。
 次の日の朝早く、近所の八百屋さんにある全てのお米85キロを購入し、交流センターの女性にお米研ぎを手伝ってもらい、大きなザル、ボールを持って、近くの「泉ヶ森神社」にある泉でお米を研ぎました。(非常食は本当は研がないといわれていますが。)
 防災部員や交流センターの人たちが大きな鍋とガスの用意、近所の井戸で水を汲んでおいてくれ、女性防火クラブ員2名、看護師さん、飲食店を営む方、保険会社に勤めている方で、700名分のおにぎりは無理なので、おじやを作りました。八百屋さんに野菜とお味噌とダシをお願いし、若い男の人たちが大きな鍋をかけたり、水を入れたり、材料を入れてくれました。手伝ってくれた方の中には千葉から来ている男性がおり、電車が止まって帰れないのでお手伝いをしてくれました。静岡からきている方からは、「こんな真っ暗な避難所はありません。静岡には全部の避難所に発電機と投光器が付いています。非常食も常備しています」それを聞いて現在は発電機と投光器を設置してもらうよう準備を進めています。
家庭の食材を持ち寄って炊き出し
家庭の食材を持ち寄って炊き出し
 一般の方の他に、近くの病院から患者さんと付き添いの方併せて62名避難されており、「患者さんを先に食事をあげてもいいですか」と皆さんに聞くと快く承諾してくださいました。市役所の職員の方や付き添いの人たちの助けを借りて配った後、避難している皆さんに並んでいただいたのですが、その時に「電気も通ってないので、冷蔵庫にあるもの、野菜・肉・卵など持ってきてもらえないですか。」と声を掛けながら給付しておりました。そしてその事を入口に貼り紙を貼りました。
 2日目からは全部その持ち寄りで賄うことができました。持ち寄って来ていただいた方の殆どが若い女性や男性達でした。残念なことに50歳以上方の多くは何も持ってきてくれませんでした。若い方々には本当に感心しました。また、近くの飲食店からも持ち寄りがあり、沢山の食料が集まりました。ある方はお店のガスオーブンでお肉を焼いて来てくれました。本当に寒かったので温かいものを皆さんに配ることができて良かったです。2日目からは女性防火クラブの人達も数多く集まり、センターの調理室の中で食事の用意をしていただきました。
 13日には電気が通りました。自宅にある井戸水を近所の方々に自由に使っていただけるよう、塀に貼り紙を貼り、皆さん喜んで水を汲みに来てくれました。鍋を洗ったり後片付けをやったり、皆、男の方達がやってくれました。手際よくトイレの水くみもプールからバケツリレーのように汲んでくれました。皆さんは何の指示もなく、自分から進んで作業してくれました。そんな中、JRが途中で止まったために、スーツを着た人たちが避難所に集まって来たので、交流センターにあったパンと水を配り、交流センターで休んでいただきました。

今後の改善点

  1. 避難所に発電機や投光器を。(明るいと避難者が安心するとともに、この場所が避難所である事を知らせることが出来る。)
  2. 日立市23学区の交流センターに井戸を掘る。
  3. 全ての避難所に大鍋の設置を。
  4. クラブ員は自主的に集合。多くのクラブ員は声が掛かると思い、家で待っていた。現実は電気も電話も使えない状況なので、クラブ員は自分の家族の身の安全が確保できたら指示がなくても自主的に集合を。
  5. 行政には頼らない。地震発生後1週間は行政も手が空いていない状況。「誰かがするだろう」「してくれるだろう」ではなく、自分の責任で行動を。発生直後は公的な支援を受ける事は難しい。普段から自ら準備しなければならない。

ご清聴ありがとうございました。

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「東日本大震災を乗り越えるための支援活動」

岩手県婦人消防連絡協議会 会長 千葉 とき子
(藤沢町婦人消防協力隊長)

基調報告をする千葉会長
基調報告をする千葉会長
 全国の防火クラブの皆さま、そして婦人消防協力隊の皆さま、日本防火協会さま、関係各位の皆さまから多大なる支援金、物資の支援をいただきました。本当にありがとうございました。復興に向けて頑張って参ります。
 2011年3月11日 14時46分 大きな地震が発生しました。私が住む藤沢町では震度6弱を観測しました。14時49分大津波警報が発令され、10メートル程の高さのビルも津波に呑まれてしまいました。岩手県では12市町村が被災されました。3日間かけて皆さんからいただきました支援金を防火クラブに配布しました。また、藤沢町は隣町が宮城県というところにあり、被災地からは車で10分。宮城県気仙沼市本吉町が被災したのですぐに支援をしようという輪が広がりました。
宮城県気仙沼市立大谷小学付近被災状況
宮城県気仙沼市立大谷小学付近被災状況
 本吉町では海から2キロ程の高台にある気仙沼市立大谷小学校、中学校が避難所になりましたが、この避難所にまで津波が押し寄せていました。現在は瓦礫が取り除かれ学校の校庭には187個の仮設住宅が建てられております。
 藤沢町は14時50分に対策本部を設置しましたが、すぐに本部に600丁程の豆腐、納豆、揚げ豆腐が届けられました。これを気仙沼の対策本部まで町長はじめ、消防団長さん、関係団体さんと届けました。
 遅い対応だったのですが、16日に会議が行われ17日に町内20カ所に救援物資が2トン車で20台ほど集まりました。タオルや毛布、衣類を男女や大人子どもに分ける作業をし、避難所に持って行き、町内ボランティアが救援物資を配りました。まず町内の全てへの物資を本吉総合体育館に集めたものの整理がつかなくなり、上に重ねるだけでした。このままでは避難所に物資が届かないので早急の対応をお願本吉総合体育館へ救援物資を運び込む
本吉総合体育館へ救援物資を運び込む
いしたところ、「職員が遺体の確認で手薄になっている」ということで、私達藤沢町のボランティア団体、職員の皆さまの手を借りて、10か所の避難所に届けました。飲料水の給水は気仙沼市本吉地域にある2ヶ所の水源地と事務所はいずれも津波で被害を受け、断水が続いていました。気仙沼市と藤沢町のトラックを1日6回、24トンの給水を避難所と炊き出し所に3月16日から6月7日まで行いました。
 気仙沼市大谷地区の会長さんのお話では、一次避難所、二次避難所とも津波に襲われ、そしてたどり着いたのが近くの高台にある仙翁寺だったそうで、350人がこの仙翁寺に集まり、住職さんは快くお寺を開放してくださり、避難所となったそうです。会長さんは行政の手が回らないということを覚悟して、自立して避難所を運営する覚悟を決めたとおっしゃっていました。自分達でテントを作り上げ、4つの釜は被災に遭わなかった鉄工所の方が大きな鉄釜を用意してくれたとの事です。避難生活は長期戦。「一人が勝手な事を言っていたら震災を乗り切れない。心をひとつにして助け合い支えあっていこう」と意志を持って、本堂に“絆”という決意を貼りだしたそうです。
クラブ員が真心を込めておはぎ等を提供
クラブ員が真心を込めておはぎ等を提供

 藤沢町の婦人消防協力隊の有志の方々で地震発生から4週間後のこの日、真心をもっておはぎや漬物、豚汁、焼肉を炊き出しで出しました。私達の活動で一番喜ばれたのが、お風呂の提供でした。被災から10日目の入浴だったということで、未だに「お風呂が一番良かった」と大変喜ばれました。当初は五右衛門風呂を探していましたが、それよりも藤沢町にある入浴施設と町に相談し、大きなバスで送り迎えをしてもらってお風呂を提供していただきました。藤沢町では気仙沼地区との今回の交流を機に今現在でも「交流演奏会」や、将来は被災者へ提供する「交流田植祭り」なども開いております。
 藤沢町は、これまでの訓練や備えが活き、町民や自治会、自主防災組織がフル回転をして地域を守り、停電で電話が使えない中、自分達の足で1軒1軒安否確認に周ったそうです。そして避難所を開設し一人暮らしの人達を避難させ、米や野菜は持ち寄りで避難所を3日間運営し、要介護者14人を健在者18人、保健師一人が付きっきりで支えたそうです。
 私達の藤沢町も大きな被害がありましたが、隣の本吉町はもっとひどい被害を受けている。自分のまちと同様に支援していこうと活動して参りました。

 今後の課題として、改めて避難経路の確認をしなければならないと感じました。津波に関してもいつどこで地震や津波に遭遇するか分かりません。もし、海で津波に遭ったらどこに逃げようか。今回では津波にあった車が国道を走って逃げたことで、多くの犠牲者が出ました。常日頃どのような状況で遭遇するか、どのように逃げるか、頭に入れて行動しなければならないと思いました。
 防災教育の一層の充実を図らなければなりません。釜石の高校生が小学生の手を取って避難したという話しや、気仙沼の中学生達が海で流され衣服が濡れた人達に自分達が持っている運動着を着せたという話しを聞きました。家庭での教育も大変大切だと思いました。私が小さい頃から「地震があったら津波と思え。そして避難だ!」とお母さんから教えられてきました。是非、この事を家庭で教えていただきたい。
 明日にでも来ると言われた大震災。ハイテクを駆使したシミュレーションや大規模な訓練等、国を揚げて大切にしてきましたが、想定外の事が連続して起こりました。世界最先端の技術を持っても自然災害には到底対抗できません。私達一人一人が日頃から備える以外に命を守るすべはないと思います。大雨や洪水に関しても自然や環境に負荷をかけない、自然と向き合う事が大事だと思います。それが防災の第一歩でもあると思います。

ご清聴ありがとうございました。

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