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2012年4月

1.東日本大震災被災地で実施した婦人防火クラブの支援活動について ~第4回~

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 昨年3月11日発生しました東日本大震災で被災された3県の内から、婦人防火クラブ(婦人消防協力隊)を選定し、被災体験、炊き出し支援等被災者支援の対応状況等について聴取いたしました。ここでの聴取内容を数回に分けて全国の婦人防火クラブの皆様にお伝えすると共に、記録して保存していきたいと考えております。
 第4回目の今回は、仙台市婦人防火クラブ連絡協議会の皆様にご協力をいただきましたので、紹介させていただきます。
 また、7年前の新潟県中越大震災を経験された新潟県女性防火クラブ連絡協議会 佐藤笑子会長より東日本大震災の被災地へ支援活動された様子や、那須塩原市黒磯婦人防火クラブ連絡協議会 木沢トモ子会長より宮城県石巻市で支援活動された様子を寄稿いただきましたので、ご紹介させていただきます。

仙台市婦人防火クラブ連絡協議会が行った活動について

宮城県 仙台市婦人防火クラブ連絡協議会

 仙台市内の被害は、犠牲者が704名、行方不明26名、重症275名、建物の全壊は2万8千702棟、大規模半壊2万4千661棟、半壊6万9千763棟となっている。(仙台市のウェブサイトによる)
 仙台市の婦人防火クラブは、6地区に536団体あるが、震災直後から各地域で自主的な支援活動を始めている。それぞれに厳しい条件のもとであっても、力をあわせて大小の避難所支援、在宅避難者支援等を行っており、自宅を失う被害を受けながらも、避難所での相互扶助活動に尽力したクラブ員も多い。
>>インタビュー内容はこちら(PDF)

左から小野寺さん、佐藤(美)さん、森さん
左から小野寺さん、佐藤(美)さん、森さん
左から浜さん、武田さん、菅野さん、岡さん
左から浜さん、武田さん、菅野さん、岡さん

災害と婦人防火クラブ

新潟県女性防火クラブ連絡協議会

会長 佐藤 笑子

 7年前、新潟県中越大震災の時は、全国の婦人防火クラブ員の皆様をはじめ、防火協会関係の皆様より多大なるご支援を頂きまして、大変ありがとうございました。大きな余震が続く中、また、道路状況が悪い中、遠回りをして普段の何倍もの時間をかけ、炊き出し等に来ていただきました。このことがきっかけで交流ができたクラブ員もおり、地震の度に見舞いの電話を頂き、また豪雪見舞いを頂いたり、現在でも連絡を取り合っております。
 さて、平成23年3月11日東日本大震災が発生し、地震そのものは、中越大震災と大きく変わらないと思いますが、本当に想定外といいますか、津波が大きな被害をもたらしました。それに加え原子力発電所の事故があり、「これは大変だ!」と思いました。3月11日はまだまだ雪も降り、寒い時期でした。一刻も早く何とか救援物資を届けたいと思ったのですが、どの様なルートを使うと早く届くか考えている所へ彼女から一本の電話が・・・。彼女とは中越大震災前迄ソフトボールのチームでバッテリーを組んでいた人で、現在「NPOおぢや元気プロジェクト」の代表を務めており、「今、いわきの山の中を防護マスクを付けて状況を見に入っているが、本当に大変。避難した人は何にも持たずに逃げて来たので、何でもいいから寒さを凌げる物を大至急送ってくれ。」とのお願いでした。
 直ぐに町内の婦人防火クラブ員(50数名)に連絡をとり、防寒着等のアノラック・セーター・毛布・手袋・靴下・カイロ等を集会場に集め、20数人のクラブ員で箱詰作業をして、第一便として20数箱をNPOの事務局に運びました。さらに一日おいて30箱ほどを第二便として運びました。行政だと支援物品を一箇所に集め、分別しなければならないので届けるとなると日数がかかりますが、NPOは直接避難所に持って行くので、必要な方に必ず届けてくれました。
 ただ一つ残念な事が私にはありました。家にあったハガキ、切手、封筒を荷物の中に入れましたが、返事が来ませんでした。返事どころでは無かったかも知れませんが、私の気持ちは、礼状がほしくて入れたのではなく、文通がしたかったのです。物を送ると言うことは、最初の内だけで、月日が過ぎれば自然に忘れられる様な気がしますが、文通だといつまでも…、特に同年令の方と…。
毎週火曜日約1時間「火の用心」
毎週火曜日約1時間「火の用心」
 私は現在72歳で、現地へ車で行くことも出来ませんが、今は避難されてるほとんどの方が避難所から仮設住宅等へ移られ、逆にひとり暮らしの方はさみしい暮らしをしていると言う報道をテレビで見ました。そのような方と文通をすることこそ永い心の支援だと私は思います。小千谷市では東日本大震災の時、福島県からの避難者を体育館等で受け入れる際、まず真人町の若栃集落など市内の一般住宅で気持ちや体を休めていただくため原則一週間、民泊という形で受け入れました。避難されて来た方々には、大変喜んで頂きました。
 さて、昨年の10月23日で中越大震災から満7年が過ぎました。私の町内にも当時仮設住宅が四十数戸建ちました。今でも毎週火曜日の夜8時から約1時間「火の用心」の広報を歩いて回っております。震災当時、仮設住宅にも足を延ばして言葉かけをしましたが、残念なことにひとり暮らしの男性がある日孤独死をしていました。この震災の教訓を残すため小千谷市に「おぢや震災ミュージアム・そなえ館」が昨年の10月23日にオープンしました。東日本大震災と比べて被災の規模は小さなものかも知れませんが「そなえ館」に行くとあの時の恐ろしさが思い出され、二度と来館したくないと思いますが、やはり後世に伝え残すには必要で大変良いものが出来たと思います。
 最近首都圏、東海、東南海・南海に大きな地震が起きる確立が高いとテレビや新聞で報道されています。また、富士山が噴火の可能性もあるとか、本当に心配です。それに加え目に見えない原子力施設の災害には困ります。私たちの子供の頃から思えば電化が進み、車社会となり、これが地球温暖化等の原因の一つであり、自然破壊になっている様に私は思います。また、自然災害が最近多いのは、人間が原因を作っている様に思われます。
 最後に今後大きな自然災害が無い事を祈ります。

「県境を越えて心をつなぐ 那須塩原の石巻応援手伝い隊」

栃木県 那須塩原市黒磯婦人防火クラブ連絡協議会
会長 木沢 トモ子

 私たち那須塩原市黒磯婦人防火クラブ連絡協議会は、東日本大地震の被災地である、宮城県石巻市を支援する「石巻応援手伝い隊」として、平成24年2月12日に同市の相野谷にある被災者のための仮設住宅「飯野川校団地」を訪問しました。
 メンバーは、婦人防火クラブの役員をはじめ市社会福祉協議会、市ボランティア連絡協議会会員、国際医療福祉大学生、黒磯北中1年生ら総勢59名という人数です。
 前日の朝9時から材料の下ごしらえをするために、役員が集合し野菜を刻む作業を行いました。
 出発は、朝まだ暗い5時ということで私たち婦人防火クラブ員は、夜中の1時30分頃に集合しメンバーの朝食を準備しました。「腹が減っては戦が出来ぬ」とばかり、少し余分に80名分を用意しました。
 現地は石巻市内の高台にある石巻北高校飯野川校グランドに建てられた仮設住宅です。そこには、72世帯、250人の方たちがおり、不安や疲れを感じながら生活しています。現地には10時頃に到着し、さっそくトラックに積み込んで持参した大鍋を準備し、白菜や長ねぎ、大根などの入ったすいとん汁600食を調理し、お年寄りや家族連れなどに振る舞いました。みんなは「体が温まる」と言いながらすいとん汁に舌鼓を打ち、喜んで食べてくれました。 

すいとん汁の準備
すいとん汁の準備
すいとん汁の香りで人が集まってきました。
すいとん汁の香りで人が集まってきました。

 また、婦人防火クラブ員は以前に紹介しました「那須野巻狩りまつり」でのフリーマーケットの収益金で購入した防炎タオルを、中学生が復興を願って書いた色紙と手編みのマフラーなどと共に、外出できないお年寄り宅を1軒ずつ訪問し手渡して交流を図りました。
 早速、手渡したマフラーを首に巻いた男性が、私たちのところにやってきて、嬉しそうに話しかけてきたのが印象的でした。
 あの震災から間もなく1年が過ぎようとしていますが、いまだに災害の爪痕が町並みやそこに暮らす人たちの心に、深い傷を残していると感じました。
 私たちや同行した大学生・中学生が被災者の支えになりたいと願う心が、少しでも力になると信じ、こういう若い人がいれば必ず元通り、いやそれ以上に立ち上がれることができると思う一日でした。

ボランティアの中学生と一緒にお宅を訪問
ボランティアの中学生と一緒にお宅を訪問
手編みのマフラーを手渡しする木沢会長
手編みのマフラーを手渡しする木沢会長
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